ルッキズム台頭の構造的理由
近年、「ルッキズム(外見至上主義)」という言葉を、メディアでもSNSでも頻繁に目にするようになった。
容姿に対する過剰な評価と、それに伴う差別的まなざし。
特に若年層のあいだでは、「かわいい/かっこいい」以外の軸で評価されることが減っている、と感じたことはないだろうか。
なぜここまで、「顔」や「スタイル」が絶対的な価値を持つようになったのか。
そこには、単なる流行ではない、時代の深層構造が隠れている。
1|SNSが「顔」を情報化した
かつて外見とは、対面の関係の中だけで評価されるものだった。
だが今やSNSが、人間の評価軸そのものを「画像」と「動画」にシフトさせた。
写真の加工が常識化し、「盛れる」ことが技術になり、ライブ配信では常に“見られる意識”が求められる。
現代におけるSNSは、自己表現のツールであると同時に、自己商品化の場でもある。
その中で、見た目が整っていることは、フォロワー数、コメント、承認──すべての「数字」に直結する。
つまり、「外見=影響力」という数値的現実が、無意識のうちに私たちの価値観を再構築してしまったのだ。
2|「学力」の崩壊と、知的評価軸の消失
もうひとつ見逃せないのは、「見た目以外の評価軸」が細っていることだ。
その筆頭が学力と知性だ。
日本はかつて「読解力の高い国」だった。
だがOECDのPISA調査(学力調査)では、日本の読解力・国語力が2000年代以降、じわじわと後退している。
これは単に漢字や語彙の問題ではない。
「文脈を読み、相手の意図をくみ取る」「抽象的なテーマを理解し、他者と議論する」──
こうした力が、社会全体で失われつつある。
結果、見た目のわかりやすさだけが、人間を測る明快な“物差し”として残った。
3|コンテンツの劣化と、想像力の空洞化
昔の映画や音楽は、見えないものを想像させる力に満ちていた。
台詞の間、カメラの静止、余韻の残る歌詞。
それらは受け手の心の中で世界を広げる装置だった。
だが、今やコンテンツは「テンポ命」「即オチ」「バズるかどうか」で評価される。
音楽は15秒で勝負が決まり、映画やドラマも“映える画”が最優先。
作品は「考えさせる」より「わかりやすいこと」が正義になってしまった。
想像する力の喪失──それは、他者の内面を思いやる力の低下にもつながっている。
つまり、「顔」だけを見て判断する社会の温床が、コンテンツ文化の中にも息づいているのだ。
4|「共感」と「言葉」のズレ
近年、「共感」という言葉が一種の魔法のように使われている。
けれど、共感とは本来、言葉を通じて他者の心に寄り添う行為であるはずだ。
だが、言語能力が劣化し、論理より「ノリ」、深読みより「感情の早取り」が主流になった今、
「共感」とはしばしば、「見た目」や「わかりやすいリアクション」への同調にすり替わっている。
つまり、言葉による“人間理解”が機能しなくなった結果、
人間を理解する手段として、「顔」だけが肥大化したとも言えるのだ。
5|「顔の時代」は、社会の貧しさの裏返し
ルッキズムの台頭とは、外見偏重の問題ではなく、
「他者を見つめる目の貧しさ」の象徴である。
かつては、読んだ本、考えたこと、交わした会話が、その人をかたちづくっていた。
けれど、情報が視覚化され、言葉が軽んじられた現代では、「その人の内面」に時間をかけて触れることが、どんどん面倒になっている。
そして、面倒なものは評価されない。
評価されないものは、存在しないも同然になっていく。
終わりに──もう一度「人間」を見つめなおすために
ルッキズムが台頭しているのではない。
ルッキズムしか“頼れる評価軸”がなくなった社会になりつつある、というのが正しい表現かもしれない。
だからこそ今、私たちはもう一度、
「人を見るとはどういうことか?」
「見た目の奥に、何を読み取るべきなのか?」
という問いに、言葉を通じて戻っていく必要がある。
顔だけで人を測る社会は、やがて顔だけを残して、誰の心にも触れられなくなる。
ルッキズムの台頭とは、そんな静かな警告でもあるのかもしれない。