「真実を伝える」ということ
1985年の夏、日本航空123便が群馬の山中に墜落した。乗員乗客524人中、520人が亡くなるという未曽有の惨事。
映画『クライマーズ・ハイ』はこの事故を、報道という側面から描き出した作品である。
主人公・悠木は地方紙の記者。突然飛び込んできた「墜落事故」の第一報に、新聞社内は混乱し、やがて社内の派閥や組織の論理、取材現場との摩擦が表面化する。
彼は「真実を伝えるとはどういうことか」に直面しながら、自身の記者としての信念と、人としての在り方を問い続けていく。
■ 教育者として──「言葉の重み」と「生きた学び」
教育の現場では「伝える」ことが日常だ。教師は、子どもに言葉を介して知識を届け、考えさせ、時に行動を促す。しかしこの映画を観て、あらためて思わされたのは、「伝える」という行為の責任の重さだ。
悠木は、取材対象に深く踏み込む。だがそれは“スクープ”のためではない。「何を伝えるべきか」「何は書くべきではないか」に葛藤しながら、一人の人間として“命”と向き合おうとする姿勢がある。
教育も同じだ。子どもの前で発するひと言が、その子の心にどれほど深く残るかはわからない。ときに無意識に放った言葉が、刃にも薬にもなる。それを知った上で、「言葉を届ける覚悟」が私たちには問われている。
■ メディア批評として──情報の受け手を育てる
映画では、社内の派閥闘争や販売部との軋轢、事故現場への立ち入り問題など、報道の現実が生々しく描かれる。そこには、「読者に何を、どう伝えるか」という報道倫理の葛藤がある。
現代の子どもたちは、スマートフォンひとつで膨大な情報に触れている。だからこそ必要なのは、「何が事実で、何が演出か」を見抜く力、つまりメディア・リテラシーである。
大人が何も考えずにテレビやSNSの情報を鵜呑みにしていれば、子どもも同じように育つ。悠木のように、「本当のことは何か?」と問い続ける大人の姿こそ、子どもにとっての一番の教科書になるのではないか。
■ 親子の関係として──“向き合わない父親”という影
本作の根底には、悠木と息子との不器用な関係が流れている。仕事に没頭する父。父の背を見て育つも、距離が埋まらない息子。
この二人の関係は、まさに“昭和的な親子像”の縮図だ。
だが、悠木が記者として極限状況を駆け抜ける中で、自らの「父親としての姿勢」をも見つめ直していく姿に、静かな感動がある。
仕事に情熱を注ぐ背中を見せることは、時に子どもへの最大のメッセージとなる。だがそれだけでは、心は届かない。言葉で、まなざしで、存在で、きちんと“向き合う”ことが必要なのだ。
■ まとめ──「クライマーズ・ハイ」とは、大人にこそ訪れる瞬間
タイトルの「クライマーズ・ハイ」とは、登山者が極限の緊張を超えたときに感じる高揚状態のこと。
それはまさに、命を削るような日々の中で、一瞬訪れる“生の実感”でもある。
教育現場でも、子育てでも、私たちは日々の雑務や葛藤に埋もれてしまいがちだ。だが、たとえ一瞬でも、「この子に届いた」と感じる瞬間がある。その瞬間こそが、私たちにとってのクライマーズ・ハイなのかもしれない。
この映画は、派手な感動ではなく、「生きるとは」「伝えるとは」「親であるとは」をじわじわと心に問いかけてくる。
そして、それに真摯に向き合う大人たちの姿が、今の子どもたちにとって、何よりの“教育”になるのではないかと、私は思うのだ。