教室の灯は、誰のために灯るのか?山田洋次監督『学校』シリーズに見る“まなざし”の教育論

点数でも評価でもない、“ともにいる”という教育の本質

夜間中学、定時制高校、不登校の子どもたち。
山田洋次監督が『学校』シリーズで描いてきたのは、いわゆる「周縁」に追いやられてきた人々だった。

だがその物語の本質は、決して“特別な場所”の話ではない。
むしろ私たちが日々暮らしている社会、すぐ隣の教室にも確かに存在するリアルな息づかいだ。

『学校』に登場する教師たちは、教育の「理想像」としては描かれない。
怒鳴る、迷う、諦めそうになる。それでも彼らは、子どもや大人の「声にならない声」に耳を傾けようとする。そこに山田監督ならではの“まなざし”がある。

教育とは何か――。
この問いは時代によって変化するが、『学校』シリーズが一貫して提示してきたのは、「一緒にいること」の尊さだ。
学力向上でも偏差値競争でもない。目の前の一人の人間に「おまえはここにいていいんだ」と伝えること。
それこそが、教育の最も根源的な使命ではないか。

たとえば、ひらがなを覚え直す中年男性。
その背後には、学ぶ機会を奪われてきた人生がある。
何かを教えるより先に、「どう生きてきたか」を受け止めること。
教室という空間が、ただの知識伝達の場ではなく、人生をやり直す“人間の居場所”となるために、教師に何ができるか――それを静かに問いかけるのが、このシリーズの真価である。

現代の教育は成果主義に傾きすぎている。
だが、山田作品は真逆だ。成果ではなく“まなざし”に価値を置く。
教育者が完璧でなくてもいい、むしろ不器用でいい。その不器用さのなかに、人と人との関係が育つ。そんな希望を、映画は私たちに見せてくれる。

そしてなにより、“教室の灯”は生徒のためだけに灯っているのではない。
それは教師自身が、自らを照らすための灯でもある。
誰かの居場所をつくるということは、自分の存在を肯定することでもあるのだ。

山田洋次監督は、教育を「教えること」としてではなく、「共に在ること」として描いた。
この姿勢は、教育の現場に関わるすべての人にとって、静かで深い問いを投げかけている。

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