「自分らしさ」を履き違えていないか?
最近よく耳にする言葉に「多様性を尊重しよう」「自分らしく生きよう」があります。もちろん、その考えには大いに賛成です。人それぞれ、価値観や育ってきた背景が違う。だからこそ、他人と違っていても、否定されるべきではないし、社会は寛容であるべきです。
しかし——。
その「多様性」や「自分らしさ」が、いつの間にか「自己中心的な振る舞い」と混同されている場面を、最近よく見かけます。
たとえば、
• 「私はこういう性格だから」と、改善を放棄する人。
• 「個性なんで」と言って、ルールを守らない人。
• 「違う価値観を認めて」と言いつつ、他人の意見を全否定する人。
こういうケースを見るたび、私は思います。
それは“多様性”じゃなくて、“我の押しつけ”じゃないか?
多様性とは「他者と共存すること」
多様性は、ただ「自分を貫く」ことではありません。
本質は「違う他者と、どう折り合いをつけて共存していくか」という姿勢です。
たとえば、会議の場で「私はこう思う」という主張は大事ですが、同時に「他の人はどう思っているか」を聞く耳を持たなければ、ただの“わがまま”になってしまいます。
「私は私だから」と言えば聞こえはいいけど、それはときに、変わる努力から逃げる言い訳にもなり得る。
「個性を大事にして」という言葉の裏に、「周囲に合わせる気はありません」という拒絶が含まれてしまっていたら、やっぱりどこか歪なんです。
寛容さとは「他人にもそれを許すこと」
面白いのは、多様性を声高に叫ぶ人ほど、実は「自分と違うもの」に不寛容だったりすること。
・伝統的な考えを持つ人を「古い」と一蹴する
・体育会系を「パワハラ体質」と決めつける
・“普通”を重んじる人を「つまらない」と見下す
それって本当に「多様性の尊重」なのでしょうか?
本当の意味で多様性を認めるとは、自分と“合わない”人も、否定せずに受け入れる覚悟を持つことです。
自由には、責任が伴う
「自由」や「多様性」は、本来すごく尊いものです。
でも、それは決して「好き勝手にしていい」という免罪符ではありません。
自分を大切にすることと、他人を思いやること。
自己表現と、社会的責任。
この両立のバランスを取ることこそ、「成熟した多様性」の在り方なのだと、私は思います。