「生活が苦しいのは憲法25条違反だ」
「教育費が高すぎるのは憲法26条違反では?」
「低賃金は憲法27条違反だと思う」
社会問題が起きるたびに、こんな声をSNSや記事で目にする機会が増えました。
そしてそのたびに、どこかで誰かが言う。「それ、プログラム規定だから意味ないよ」と。
では本当に、憲法を根拠に異議を唱えることは“無意味”なのでしょうか?
プログラム規定ってなに?
日本国憲法には、私たちの暮らしや人権にかかわる様々な条文があります。
たとえば:
• 憲法25条「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」
• 憲法26条「すべて国民は、その能力に応じて等しく教育を受ける権利を有する」
• 憲法27条「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」
これらの条文、実はすべて「プログラム規定」と呼ばれる可能性があります。
プログラム規定とは、「国が努力目標として掲げる理念」であり、「個人がそれを根拠に裁判で国を訴えても、法的に権利として認められにくい」性格を持つものです。
朝日訴訟──その象徴的な例
1957年、病気で入院中だった生活保護受給者の朝日茂さんが国を相手に訴えを起こしました。
「生活扶助費が低すぎる。これは憲法25条に反する」と。
結果は、最高裁で敗訴。
その理由が「憲法25条はプログラム規定であり、個人の具体的権利を保障するものではない」という判断でした。
朝日さんはその後亡くなりましたが、この訴訟は今でも日本の生存権論争の出発点として語り継がれています。
じゃあ「憲法違反だ!」って言っても無駄なの?
結論から言えば、「裁判では通用しにくいが、無意味ではない」です。
たしかに日本の裁判所は、憲法の社会権(25〜28条など)に対して非常に慎重です。
「違憲」と認めるハードルが高く、実際の訴訟でも勝つのはまれ。
でも、それでも憲法違反だと訴えることには、次のような意味があります。
なぜ「憲法違反」と訴えることに意味があるのか?
1. 社会の意識を変える起点になる
「制度はある。でも機能していない」「理念と現実が乖離している」その違和感を表現するうえで、「憲法違反」という言葉は力を持ちます。
2. 政策転換の圧力になる
たとえば教育無償化、同性婚、夫婦別姓など。
裁判で違憲が認められなくても、社会的な議論が進むことで政策が変わった例は少なくありません。
3. 解釈や司法の変化を後押しする
2025年、生活保護費の一律引き下げが「違法」とされた最高裁判決は、行政の裁量にも限界があるという新たな判断でした。
これは「朝日訴訟」の延長線上にあるとも言えます。
建設的な「憲法との向き合い方」とは?
「これは憲法違反では?」と思ったときに大切なのは、次のような視点です。
• その憲法条文が具体的権利として機能するかどうかを見極める
• どの法律・制度とどうぶつかっているかを考える
• 訴訟だけでなく、議論・発信・政策提言など多様なアプローチを使う
問い続けることが、変化の原動力になる
憲法はただの紙切れではありません。
私たちが生きる社会の「あるべき姿」を描いた約束です。
たとえすぐに裁判で勝てなくても、「この現実は本当に憲法と整合しているのか?」と問うことは、立派な市民の行動です。
「無意味だ」と切り捨てずに、
「どうすれば意味ある形で伝えられるか」を考えること。
そこに、私たち一人ひとりが社会を変える力があるのだと思います。