広島と長崎を舞台に、あのジェームズ・キャメロンが原爆映画を製作するというニュースを目にした。
「観客が原爆投下を体験したかのように感じられる映画を創りたい」
「起こったことを手加減せず、容赦なく描く」
──この言葉の重さに、背筋が伸びた。
そして思った。
ようやくこのテーマに、世界の巨匠が本気で向き合おうとしている。
映画だからこそ届く“痛み”がある
僕は、日本人として、そして表現者の端くれとして、
こういう作品が生まれることに心から意義を感じる。
活字では伝えきれないものが、
静止画では想像しきれないものが、
映画という“総合芸術”によって初めて届くことがある。
たとえば、
爆心地で光を浴びた瞬間の“音のない閃光”
肌が焼かれながらも他人を助けようとする人の“無言のまなざし”
誰も声にできなかった“死者たちの気配”
そうしたものは、物語として語られるだけでは足りない。
「体感させる」ことが必要なのだ。
世界に伝える責任が、今、映画に託されている
世界には、いまだ「原爆は戦争終結に必要だった」という認識が残っている。
「核の抑止力が平和を守っている」というロジックも、根強い。
でも、本当にそうだろうか?
一発の爆弾が、数十万の命を、街を、文化を消し去る。
その圧倒的な現実に、目を背けることはもう許されない時代だと思う。
だからこそ、キャメロンのような映像のプロが、
真正面から「何が起きたか」を描こうとする意味は大きい。
映画が世界を変える瞬間を、僕は信じている
正直に言えば、怖さもある。
誤解されるかもしれない、
日本人の感情が置き去りになるかもしれない、
商業主義に寄ってしまうかもしれない。
でも、僕はそれでも願いたい。
この作品が世界の人々に、核兵器の現実を突きつけてくれることを。
そして「これ以上は二度とあってはならない」という祈りを共有できることを。
それができるのが、映画の力だ。
人の心を揺さぶり、問いを残し、言葉を超えて届く。
キャメロンなら、その力を信じて託せる気がする。
おわりに
この映画が完成するころ、
世界はもっと核の危機にさらされているかもしれない。
でも、そんな時代だからこそ、
「伝える」という行為の意味が増す。
僕は願う。
この作品が、核兵器というテーマに対する関心を広げ、
過去の悲劇を他人事ではなく「自分ごと」として感じさせるきっかけになることを。
これが、映画の力だ。