比較から抜け出せない自分が、情けないと思っていた

ふとした瞬間に、自分でも驚くような思考が浮かぶことがある。

たとえば、凶悪犯罪を犯して死刑を待っているような人間が、
誰かに手紙を送られ、交際し、ついには結婚までしているという報道を見たとき。

「……それでも結婚できるのか」と。

誰かを傷つけた人間でも、選ばれる。
人生を踏みにじった人間でも、愛される。

じゃあ、なんの罪も犯していない自分は?
ちゃんと働いて、社会に迷惑もかけずに生きてる自分は?
なぜ一人なんだ? なぜ誰にも“選ばれない”んだ?

そんなことを思った自分に、一瞬で嫌気が差した。


でも本当に、そんなに自分はひどいのか?

「比較は無意味」とか、「他人は他人」とか、
頭ではわかっている。

けれど現実には、比べてしまう。
ふとしたSNS投稿、ニュース記事、誰かの近況報告。
全部が、「自分にはないもの」を持ってる誰かの話に見えてくる。

いつからだろう。
「幸せ」ではなく、「勝ち」か「負け」かで物事を測ってしまうようになったのは。


たぶん、愛されたい。

ただ、それだけなんだと思う。

深い理解や、静かな安心感や、誰かとただ笑って過ごせる日々。
そういうものがほしい。
でもそれは、過去に罪を犯したかどうかとは、たぶん関係ない。
どんな人間にも、関係の始まりは訪れる。
それが善人か悪人か、ではない。

それでも、自分が愛されていないと感じる瞬間に、
「なぜあの人にはそれがあるのに、自分にはないんだ」と思ってしまう。

そんな自分が情けなくて、恥ずかしくて、
でも、きっと多くの人も似たような感情を抱いている気がする。


今日もまた、比べてしまった。

でも、そんな自分も「人間」なんだと思いたい。

嫉妬も、劣等感も、寂しさも、
人間としてちゃんと生きている証拠なのかもしれない。

完璧じゃないし、みっともない部分もあるけど、
それでも、そんな感情を否定せずに見つめられたら、
少しだけ前に進める気がした。


もし同じような思いを抱えている人がいたら

あなたはひとりじゃない。
僕もまた、比べながら、悔しがりながら、それでも生きてる。

その事実だけで、どこか救われるような気がして、
この文章を書いています。

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