最近ふと思うのです。
「今の若者って、なんだかロボットみたいじゃないか?」と。
もちろん全員がそうだとは言いません。ただ、昔に比べると「心が動いている表情」が見えにくい気がするのです。悲しいニュースを聞いても、感情が波立たない。映画を観ても、SNSに感想を数行書いて終わり。そこには余韻も葛藤も、ほとんど残らない。
映像は迫力を増したのに、心は軽くなった
昔の映画やドラマを振り返ると、派手さは今ほどありませんでした。
CGも限られていたし、映像のクオリティも正直粗い。けれど、その分、人間の痛みや矛盾が真正面から描かれていました。
「人が死ぬ」ことに重さがあったし、「誰かを想う」ことに時間がかかりました。
観終わったあと、しばらく動けなくなるような映画が確かに存在したのです。
今の作品はどうでしょう。
技術的にはすばらしい。映像はリアルで、迫力は満点。でも、その反面「考える余白」を奪ってはいないでしょうか。次々に押し寄せる刺激に、観る側も受け止めるより流されるほうが楽になってしまった。
若者が悪いのか?
ここで勘違いしたくないのは、「若者の感受性が本当に失われたわけではない」ということです。
むしろ情報の洪水や効率化の中で、感情を出す余裕がなくなっている。そう言ったほうが正確かもしれません。
人は環境に順応します。短い動画ばかり見ていれば、長編の小説は「長すぎる」と感じる。常に強い刺激に晒されていれば、小さな感動は霞んでしまう。それだけのことなのです。
本当に怖いこと
私が一番恐れているのは、「若者の心が動かなくなること」ではありません。
怖いのは、大人がそれを見て「仕方ない」「もう昔みたいな作品は生まれない」と諦めてしまうことです。
感受性は本来、眠っているだけで消えはしません。
誰かが真剣に作り、誰かが真剣に受け止めれば、必ず蘇る。
問題は、それを待てるかどうか、そして信じられるかどうかです。
余白を取り戻すこと
AIが文章をつくり、CGが世界を描く時代にこそ、逆に「人間らしい物語」は新鮮になります。
静かに問いかけてくる作品、登場人物の沈黙に意味を持たせる作品。そういうものに触れたとき、若者の心はまだ大きく動くはずです。
結局、映画やドラマが変わったのではなく、私たちの受け取り方が変わっただけ。
そして、それを取り戻す方法はシンプルです。
流し見せずに、一つの作品を深く味わう。
ただそれだけで、心はちゃんと反応するはずです。
終わりに
若者がロボットのように見える時代。
けれど、本当にロボットになってしまったわけではありません。
心を動かす余白を、社会も大人も、そして本人たちも取り戻す必要があるのだと思います。
そして、次に本当に心を震わせる映画やドラマが生まれたとき。
その作品を迎え入れる準備を、私たち自身ができているかどうかが、きっと問われるのでしょう。