なぜ日本は勝てるはずのない戦争を始めてしまったのか
第二次世界大戦へと日本が突き進んだ背景には、単純な「侵略」や「野心」では説明しきれない、複雑な歴史的経緯があります。
1929年の世界恐慌に端を発した連鎖的な不況から脱却しようとするなかで、日本は満州や中国市場に進出し、結果的に英米の利権に触れることとなりました。経済的追い詰められ方、国際社会での孤立、そして内政的な行き詰まりが複雑に絡み合い、戦争への道を選んでしまったのです。
しかし、戦争は「子どもの喧嘩」のように「ごめんなさい」で済むものではありません。国家の意思が交錯し、命が無数に消える事態です。たとえば真珠湾攻撃を指揮した山本五十六や、硫黄島の戦いで知られる栗林忠道といった軍人たちは、アメリカへの留学経験を持ち、両国の国力の差を肌で感じていたはずです。
当時のデータを見れば一目瞭然です。アメリカと日本の人口は約1.9倍、国民総生産(GNP)は約11.8倍、鉄鋼の生産量は約12.1倍、石油に至っては約528倍もの開きがありました。これは、貯金が10万円の大人が、貯金5280万円の大人とマネーゲームをするようなもの。どちらの貯金が先に尽きるかは、考えるまでもありません。
(出典:そういちコラム「戦争を始めたときの、日本とアメリカの国力の比較データ」)
それでも日本は開戦に踏み切りました。その背景には、当時の日本における「戦争=外交手段の一つ」という旧来的な感覚が根強く残っていたことがあるのではないかと感じます。短期決戦で相手の戦意を砕き、講和に持ち込めば勝ちだという思考です。
しかし世界はすでに変わっていました。第一次世界大戦を経験した欧米諸国は、「戦争=一方が壊滅するまで終わらない」という厳しい現実を学んでいたのです。
また、日本は元寇、日露戦争といった国家的危機を乗り越えた経験から、「自分たちは絶対に負けない」という過信もあったのかもしれません。その自信が、冷静な判断を曇らせたように思えます。
開戦後、日本国民の生活は急激に悪化しました。漁師や農民まで戦場に送られ、食料の生産が止まり、日常生活が崩壊していきます。不満を口にすれば特高警察に逮捕され、拷問もありました。子どものおもちゃさえも、武器の原料として取り上げられるような時代です。
一方で、アメリカ国内の街並みの写真を見ると、そこには「余裕」が感じられます。娯楽も賑わい、人々の生活は戦時中とは思えないほど落ち着いている。アメリカは、戦ってはいけない相手だった——これは、当時アメリカに駐在していた栗林中将も、深く実感していたことだったようです。
それでも日本は、戦争をやめることができませんでした。特攻という「命を部品のように使う戦術」が現れた時点で、日本に勝ち目が無いことは明らかでした。「守るべき国民を不幸にした段階で、それはもう敗戦である」と言っても過言ではないでしょう。
なぜ戦争をやめられなかったのか。本当に勝てると思っていたのか。あるいは、「どう終わらせるか」を誰も考えていなかったのかもしれません。そして、敗戦したときに誰が責任を取るのか、その覚悟がなかった——取っ掛かりはよくても、最終地点が見えていなかったのです。
この「出口の設計がないまま突き進む姿勢」は、現在の日本社会にも通じるものがあると、私は感じています。