「当たり前」は国によって違う。ウルグアイの友人から見た日本の少子化

以前、ウルグアイの友人と日本の少子化について話をした。

彼から聞いた話が、とても興味深かった。

「日本では、結婚しなくても恋愛や性的な欲求を満たす選択肢がたくさんある。風俗もあれば、インターネット上にもさまざまなコンテンツがある。だから、結婚だけが男女関係の選択肢ではなくなっているのではないか」

もちろん、日本の少子化には経済的な問題、晩婚化、子育てへの負担など、さまざまな要因がある。

だから、この話だけで少子化を説明することはできない。

ただ、面白いのは「結婚とは何なのか」という前提そのものが、国によって違うことだ。

さらに話をしていると、タトゥーの話になった。

日本では、いまだにタトゥーに抵抗感を持つ人が多い。

ところが、ウルグアイではタトゥーを自分のアイデンティティとして捉える人も多く、特別なものではないという。

ところが彼は、日本の銭湯や温泉のように、知らない人たちの前で裸になることには強い抵抗があるという。

これが面白い。

日本では「タトゥーはちょっと……」なのに、「温泉で裸になること」は比較的普通。

一方で、別の文化では「タトゥーは普通」なのに、「他人と裸になること」には抵抗がある。

どちらが正しいという話ではない。

ただ、それぞれの社会で「普通」とされているものが違うだけだ。

そして、インターネットによって、その「普通」も変わり始めている。

国境を越えて情報が行き交い、恋愛、結婚、性、家族、身体に対する価値観まで、お互いの文化から影響を受けるようになった。

教育で大切なのは、知識を覚えることだけではないと思う。

「自分が普通だと思っていることは、本当に普通なのか?」

そう問い直すことも、立派な学びだ。

日本の常識を知ることも大切。

でも、外国の人と話して「え、それって日本だけなの?」と気づくことも大切。

異文化理解とは、外国の文化を覚えることではない。

自分たちの文化を、外側から見られるようになることなのかもしれない。

「当たり前」を疑う。

その小さな違和感から、世界は少し広く見えてくる。

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